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日本人医師肥沼信次が今でもドイツの人たちに愛されるわけ

2月5日、日本テレビで「ドイツが愛した日本人」というタイトルの番組が放映されました。
日本人の一人の若い医師が、第二次世界大戦のドイツで、凄まじいチフスの蔓延の中、
ドイツの方たちが今でも忘れずに語り続けてくれるほどの功績を残したこと。
今まで、不覚にもその事実を知らなかったのですが、深い感銘を覚えました。
番組は、多くの人の命を救った肥沼信次博士(こえぬまのぶつぐ)という医師のことを、
佐々木蔵之介さんが紹介しながら、現地を巡るものでした。
肥沼信次博士は、1908年に医師の父の元、東京八王子に生まれ、
日本医科大学卒後、東京帝国大学の放射線研究室へ。
その後、アインシュタインに憧れて、ドイツフンボルト大学に留学。
ヒトラーのナチスドイツ独裁が進んでいく中で、肥沼博士は大学で教授資格を取得する直前、
戦況は厳しくなってしまいます。
日本人に帰国勧告が出る中、しかし、肥沼博士は帰国の道を選ばなかったのでした。
その当時、夫を亡くし、5歳の女の子を抱えたシュナイダー夫人に同情し、
住んでいたベルリンから、疎開先へと向かいます。
ドイツ北東部のポーランド国境に近いヴリーツェンでは、発疹チフスが蔓延していました。
ソ連軍が「伝染病医療センター」を作り、肥沼博士はそこで医師として働き始めます。
衛生環境が最悪な中、シラミが媒介するチフスを防ぎ、治療するのはたいへんな困難を伴ったことでしょう。
看護師も倒れていく中、ベッドもない劣悪な環境で、床に藁を敷いて患者が寝ていたとのこと。
そんな中、恐れもせずに患者に接し、遠い場所にも往診に行き、また自ら遠くの野戦病院に、
薬を譲ってもらうために出向いたといわれています。
家に帰ることもあまりできなかった激務であったようです。
たくさんのチフス患者を救った肥沼博士は、自分自身もチフスに感染してしまいます。
体調の悪さを、ぎりぎりまで伝えることなく、働き続けました。
1946年3月病状悪化の際にも、看護師の注射や薬を断り、他の患者にまわします。
「早く患者の元に帰りなさい」と。
そして、息を引き取る前に、「桜が見たい。」と。
肥沼博士は、それまでにも「日本の桜は綺麗だ。桜を見せたい。」と話していたようです。
現地のドイツ人に取材する中、祖父が肥沼博士に命を救ってもらったというルイス少年の言葉が印象的でした。
「おじいちゃんを助けてもらわなかったら、今、ここに僕はいないんだ。」
現地の方々は、亡くなってから70年近くも経つにもかかわらず、肥沼博士に今でも感謝の気持ちを忘れていません。
名誉市民となり、お墓もきれい管理されています。
そして、東日本大震災の際には、子どもたちが自らの発案で義援金を送ったとのこと。
今では、伝染病医療センターの建物は、ヴリーツェン市役所となっています。
地下には、当時の状態で施設が残っているところもあり、胸が痛みます。
肥沼博士の弟さんが10年前にヴリーツェンを訪問した際に、「桜を見たい」という博士の言葉を知り、
桜の苗木を送ったために、今ではヴリーツェンに日本の桜がたくさんあるそうです。
番組の中で、佐々木蔵之介さんが、肥沼博士が残した足跡をたどる中で、いろいろな場所を訪ねました。
クリスマスマーケットの華やいだ映像もありましたが、なんとその二日後に、
あのトラックが突っ込んだテロが起こったのでした。
ユダヤ人迫害の歴史をたどり、ザクセンハウゼン強制収容所も訪ねました。
アウシュビッツは映像でみたことがありましたが、ザクセンハウゼンの映像は初めてで、
現地の方の説明に、言葉を失いました。
ドイツの素晴らしいところは、それを包み隠さず、伝え続けていることだと思います。
肥沼博士も、戦争のさなかでなければ、きっともっと多くの功績を残せる方だったと思います。
起こってしまったことは、巻き戻すことはできません。
が、こうして自らの命をかけてまで多くの人々を救った医師がいたことを忘れず、
二度と戦争を起こさない思いを大切にしていくことが、今を生きる自分たちのすべきことだと感じています。

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